イスラームにおける生命
生命とは
生命はアッラーの大きな恵みです。生命を持つものは、物質的には小さなものであっても、その周囲の全てとつながりを持ちます。ほんの小さな生命体であっても、それが生命を維持するためには多くのものがそのために動いています。例えば、小さな蜜蜂のような被造物であっても、それに生命を与えられるのはアッラーであり、同時にアッラーは蜜蜂が生命を維持するために必要なもの全てを用意されます。空気、温度、光、花、蜜蜂の体の器官すべて、蜜蜂の生命の維持を助けています。これを実行されているのはアッラーです。
人間に生命を与えられるのももちろんアッラーです。人がその生命を維持するためには無限のものが必要となります。生きていくために必要なもの、というと人はまずお金や食物を思い浮かべるかもしれません。しかしそれ以前に、人はまず呼吸して酸素を取り入れなければなりません。空気を創造されたのも、そこに含まれる様々なものを創造されたのもアッラーです。人は呼吸しなければ生きていけませんが、私たちは自分がどのようなしくみで呼吸しているのか、どのように酸素を取り入れているのか、知りません。呼吸自体が無意識のうちに行なわれています。人にこのような力を与えられたのもアッラーです。また人は水がなければ生きていけません。食物を得るためには土やそこに含まれる多くのものが必要です。同時に作物が実るためにも多くの要因が必要となります。それらもまたアッラーが人に与えられます。太陽も土も雲も、人が創りだしたものではありません。このようにアッラーは生命を創造され、同時にその生命を維持する為に必要な糧をも創造され、与えられます。アッラーが創造された生命であるからこそ、アッラーはそれぞれの生命に何が必要かをご存知であり、それを準備されるのです。生命の神秘はアッラーの唯一性を示すものでもあります。
生命は一つの船に例えることもできます。人はその船のかじをとっているだけであり、船が進むためには揚力、風、船の動力など多くのものが必要となります。そこで船を保っているものは水であり、風であり、船の装置です。かじをとっている人は船の製造には関わってはおらず、ただ完成された船が彼に与えられているのです。
人はこうしてアッラーから生命を与えられ、生きています。後述のように、イスラームでは自殺が大きな罪として禁じられています。生命はアッラーからの信託であり、それを自らの手で消すことは認められないのです。また同時にイスラームにおける「寿命」の考えもこれに基づくものです。生命を与えられるのがアッラーであるように、それをお取りになるのもまたアッラーです。それがいつになるかを定められるのもまた、アッラーなのです。
命の誕生
誕生時になされること
アザーンとイカーマ
イスラームでは、新しい生命が誕生した時、耳元でアザーンとイカーマを読みあげます。これは預言者ムハンマドが行なわれたことです。ティルミズィーによる伝承によれば、預言者ムハンマドの孫であるハサンが誕生した時、預言者ムハンマドは彼の右の耳にクルアーンを読み上げています。Tirmizi, Edaha:15.
フサインによる伝承によれば、預言者ムハンマドはこの習慣に秘められた英知について次のように語られておられます。 「誰であれ子供が生まれた時、右の耳にアザーン、左の耳にイカーマを読みあげれば、その子供にジンが害を及ぼすことはない」 アザーンとイカーマは子供に最初に与えられる信仰への導きです。なぜならアザーンは、信仰の礎となるものをそこに含んでいるからです。神の唯一性、預言者の存在、礼拝といったものがそこで示されているのです。
名づけ
子供に名前を与える際には、よい意味を持ったイスラーム的な名前を選ぶことが望まれます。預言者ムハンマドはこのことを何度も薦められ、あるいは警告されています。例えば、 「最後の審判の日、あなたは自分の名前とあなたの父の名前によって呼ばれます。だからよい名前をつけなさい」 といわれています。 名づけは生まれた日の夜に行なわれることが薦められています。しかし七日目までは時間をかけることもできます。
タハーニク
ナツメヤシを噛み砕き、赤ちゃんのあごなどにほんの少しこすりつけます。これは預言者ムハンマドのスンナです。
アキーカ
生まれて七日目に赤ちゃんの髪を切ります。切った髪の重さを量り、同じ量の金(もしくは銀)、もしくはその値段に相当する施しを行ないます。 また七日目には犠牲の動物を屠ります。死産でない限り、子供が生まれたらこれらを行なうことがスンナです。
イスラームにおける「死」
死の捉え方
先述したように、生命はアッラーが創造され、与えられます。それをお取りになるのもまたアッラーです。同時に死を創造されるのもまたアッラーです。ここでの死とは現世における死であり、存在そのものの終焉ではありません。 死は一見、恐ろしいもののように思えるかもしれません。死は消失のようであり、破滅のようであり、終わりであり、行き止まりであり、無であると思えるかもしれません。しかしイスラームにおいて死は、現世から来世への一つの扉に過ぎないのです。現世という試練の場から、永遠の世界へと開かれた扉です。
クルアーンにも次のような言葉があります。 「(かれは)死と生を創られた方である。それは、あなたがたの中誰の行いが優れているのかを試みられるためで、かれは偉力ならびなく寛容であられる。」(大権章 67/2) 例えば種は地面に埋められ、時が来るとそれは破れ、避け、姿を失ってしまいます。しかしそこからは若芽が伸び、地中から外界へと発展していきます。ここではある意味で種が死を迎えますが、その死は消失や破滅ではないのです。
愛する存在・近親者を失うこと
先述のように、来世の存在を信じるイスラーム教徒にとって、死は無に帰ることでも消失することでもありません。現世における生を終え、他の場所に移っただけのことを意味するのです。それは一時的な別離です。なぜなら人は皆死によって現世を去るからです。イスラームの教えによるなら、審判の日に再び蘇り、神のお許しがあれば来世で再会することができるのです。従って愛する人の死を過度に悲しみ嘆くべきではありません。それはアッラーが定められた別離の時であり、そしてその別離は永遠のものではないからです。
イスラーム教徒は人の死の知らせを受けると、クルアーンの次の言葉を唱えます。 インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン
本当にわたしたちは、アッラーのもの。 かれの御許にわたしたちは帰ります。 (雌牛章 2/156)
子供の死
第二次性徴を迎える前に亡くなった子供は、両親の宗教が何であるかに関わらず、天国に生きます。この世界で幼い子供を失った両親への報奨として、その子供は来世では両親と共にいて、現世でのつかの間の愛情の代わりに来世で終わりのない子供への愛に浸ることができるのです。
クルアーンによれば、信者のうち、第二次性徴を迎える前に死んだ子供たちは直接天国へ行きます。そして永遠に子供のままでいて、両親に子供を愛し、撫でるといった喜びを味わわせるのです。 子供を失っても、それに対し忍耐を示したイスラーム教徒にアッラーが与えられる報奨についてアブー・ムーサーは次のように伝承しています。 アッラーの使徒は次のように仰せられた。 「子供が死んだ時、アッラーは天使たちにおっしゃられる。 『わがしもべの心から愛する子供を彼から取ったのか』 天使たちは答えていう。 『はい』 アッラーはいわれる。 『わたしのしもべはなんといったか』 天使たちは答える。 『あなたに感謝し、インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン (本当にわたしたちは、アッラーのもの。 かれの御許にわたしたちは帰ります。)と祈りました』 それに対しアッラーはいわれた。 『そのしもべのために天国に家を造りなさい。その家の名を、感謝の家としなさい』(Tirmizi, Cenaiz 36)
愛する人を亡くした人がそれを耐え忍び、悪い言葉ではなくただアッラーへと向かう言葉だけを語るのであれば、その忍耐の報奨としてアッラーは彼を天国に入れられます。天国でも、感謝の家と名づけられた場を与えられるのです。 「だが耐え忍ぶ者には吉報を伝えなさい。災難に遭うと、「本当にわたしたちは、アッラーのもの。かれの御許にわたしたちは帰ります。」と言う者(雌牛章/155,156)」
信仰を持つ人が子どもを亡くした時には、次のように考えるべきです。 「あの子は純粋無垢であり、何の罪もなかった。あの子を創造されたお方は慈悲深く寛大であられ、私の手による教育や愛情の代わりに、創造されたお方からの完全な助けと慈悲を手にすることができた。この世の困難さ、苦しみから、彼は永遠なる幸福の場天国へと送られたのであり、あの子はとても幸せなのだ。この世にいればどのようなことが起こっていたかわからない。だから私はあの子の為に嘆き悲しまない。私自身の為にも嘆いていない。永遠の天国で永遠にあの子を愛し続けることができるのだ。」
もしこの世が永遠であり、人がこの世界にい続けるのであれば、あるいは子供の死によって永遠の別れがもたらされるのであれば、それを嘆き悲しむことは意味があることだったでしょう。しかし、亡くなった子供の行くところがどこであろうと、あなたも必ずそこに行くのです。そして子供はアッラーからの信託であり、それを自分のものであるかのように思い、あたかもそれを奪われたかのように嘆き悲しむことも信者にとって適切な行為ではないのです。
寿命
寿命とは
人、もしくはなんらかの生き物に与えられた寿命は、アッラーによって定められた生きる時間です。人に定められた生命の期間が終わりの時を迎えると、それはすなわち死を意味するのです。 アッラーの御許には生を持つあらゆる存在のために定められた寿命があります。その時がくるとこの世における生は終わりを迎えます。クルアーンにおいてもそのことが明白に記されています。
「だがかれは定められた時まで、かれらを猶予される。それでかれらの時期が到来する時は、一刻も(これに)遅らせたり、早めたりは出来ない。」(蜜蜂章 16/61) 「定められた時がやって来た時、アッラーは誰にも猶予を与えられない。 」(偽信者たち章 63/11)
またクルアーンでは次のような言及もあります。 「長命な者も、短命な者も、書冊の中に載せられないものはない。」(創造者章 35/11) ここでの「短命な者」という表現について、イマーム・ハラマイン・アル・ジュヴァイニ師は次のように解釈しています。 「この句では二つの状況が述べられている。その一つは誰かの寿命が他の人のものに比べて短く定められていることである。アッラーの御許で定められている寿命が短くされる、という意味ではない。それは決してありえないことである。アッラーの御許でその人の寿命は既に定められているのである。二つめは、短命もしくは長命であることが、天使たちのもとにある書冊において実現する、ということである。彼らの持つ書冊においては定められたことが記されているが、それらはアッラーの御許において記録されたものである。ここで記録されたことが実際に起こる。学者たちは、 『アッラーは、御好みのものを取り消し、または確認なされる。啓典の母体はかれの御許にある。』(雷電章13/39) という句をも、この事実を示す者であると見なしている。」
サダカと寿命
寿命は定められたものであり、変えられることはありません。ただ、一部の人々は預言者ムハンマドの「サダカは災いを追い払い、寿命を長くする」というハディースを根拠として、寿命が長くされることがあり、従って定められた死の時も変わることがあると主張しています。まずここで大切なことは、人は必ず死ぬのであり、それはアッラーの御許における知として既に定められたものであるということです。人の死の時、そして生きる時間の長さはアッラーによって定められており、それが変化することはありえないのです。たとえば、誰かがサダカを行い、それによって寿命が二年延びたとしてみましょう。この人の生きる時間は、サダカを行なわなければ48年、サダカを行なえば50年であるという形で定められていたということになります。アッラーはその人がサダカを行なうことをも前もってご存知であり、従ってその人の寿命も50年と定められていたのです。 ここで紹介したハディースで預言者ムハンマドは信者に善を行うことを奨励され、信者たちの間の結びつきをサダカによって確固たるものとされています。サダカが災いを追い払うのは、アッラーの恵みです。私たちが支払ったサダカがどのような災いを追い払うのか、私たちにそれを知ることはできません。サダカを支払い善を行なうことによって、私たちの身に起こるはずであった多くの災いから逃れることができているのです。結果として起こらなかったために私たちがそれを知ることもなかった多くの災いから、私たちは逃れることができているのであり、これは一つの恵みです。
サダカが寿命を長くするという表現について、偉大な学者の一人であるタフターザーニ師はその書の中で多角的な解説を行なっています。 タフザーニ師によれば、寿命が長くなるという表現が意味するところは、その生涯が豊かなものとされるというものです。来世のために与えられた資本のようである人の生涯が長くなるということは、この資本によってより多くの益を得ることを意味するのです。この考えによるなら、生きる時間の長さに変化はなくても、サダカによってそこから得るものがより豊かになるのであれば、それは寿命が長くなったと同じ意味を持ちます。例えば、ある木は毎年春に4000個の実をつけ、その木の寿命は10年であるとしましょう。アッラーの恵みにより、ある年の春に4000個ではなく8000個の実をつけたとすれば、その木の寿命は1年長くなったのと同じです。そう、サダカは、人の生涯を豊かにする素晴らしい媒介です。そしてこの意味で、寿命が長くなるのです。 別の意味でとらえるなら、寿命が長くなるとは、死後もその行いの記された書冊が閉じられなくなる、という意味を持ちます。サダカは財産だけでなく、知識によっても行うことができます。信者の役に立つ作品を残した学者の善行の記される書冊は、彼が死んでも閉じられないのです。これも、寿命が長くなることを意味するものです。
寿命と運命
寿命は、運命に関わりのある問題です。あらゆる事柄をアッラーが、過去と未来の全てを包括する英知によってご存知であるように、人の寿命をもその英知によって定められているのです。 寿命についてしばしば投げかけられる疑問に次のようなものがあります。 「殺された人はそれが寿命だったのか?もし殺されていなければもう少し生きるはずだったのか?」というものです。事実この問題に関しては、多くの学者達がそれぞれの見解を述べています。 ムタージラ派の学者の一部には、その人の死は寿命ではなかったと主張する人もいます。もし殺されていなかったなら、もっと生きていたはずだ、という考え方です。 預言者の道に従う人々及びムタージラ派の多くの学者は、寿命によって死んだと見なします。しかしそうではないという学者は、次のような考え方をもとにそのような結論に達しているのです。すなわち彼らの、人間の行為は誰によって創造されるか、という見方によるものです。彼らは、何らかの行為がある場合、それをなすのは人間自身であると見なします。従って人が殺されたことは、その殺人者がなしたことと見なされるのです。
預言者ムハンマドの道に従う人々の見解としては、殺された人も寿命だから死んだのです。ただし殺人者はこの行為によって罰を受けます。 寿命だから死んだのではないと見なすことは誤りです。アッラーはその人が殺害されることをあらかじめご存知であり、その死の時をもそのように定められたのです。アッラーがそこで彼に死を創られたからこそ、彼は死んだのです。従って「彼は殺されていなかったら生きていただろう」と述べることは正しくありません。さらには、「もし殺されていなかったらどうなっていただろう」というような仮定のもとに色々な見解を述べていくことも誤りです。なぜならこれらは全てアッラーが定められたことであり、「そうでなかったら」というのはありえないものだからです。
イスラームにおける自殺についての見解―命は誰のものか
自殺
人が自らを死に至らせること、どのような形であれ人が自らの命を断つことを自殺といいます。自殺は、アッラーが創造された命を絶つことを意味します。従ってこれは大罪のうちの一つです。人に命を与えられるのがアッラーであるように、それを取る権利を持たれるのもまたアッラーなのです。人が自らを死なせる権利はありません。人の肉体はアッラーの建造物であり、それを壊すのはその創造者のみがなすべきことなのです。人が自分の体を自分のものだとすることはできません。
自殺が禁じられたものであり、来世を損なうものとなるということは、クルアーンの言葉やハディースで明らかにされています。 クルアーンでは次のように述べられています。 「またあなたがた自身を、殺し(たり害し)てはならない。誠にアッラーはあなたがたに慈悲深くあられる。」(婦人章4/29) ここでは、行為として命を害するという意味と共に、アッラーが禁じられたことを行うこと、罪を犯すこと、他者の財産を不正に利用することなどによって自らを陥れ、来世での生をだめにしてしまうという意味も含まれています。
自殺は、イスラームが禁じている大罪のうちの一つです。信者が自らを死なせることは、他者を死なせることよりもよりひどい殺害であり、罪です。このため学者たちは、自殺した人の葬儀の礼拝を行なうことができるかどうかといった点ですら論争を行なっているのです。(こういった意見の相違は、他者を殺した人に関しては存在しません。人を殺した人の葬儀の礼拝は行なわれません。)実際には、自殺した人の葬儀の礼拝は行なわれます。なぜなら彼は信仰を放棄したわけではないからです。ただ信仰が弱く、直面した出来事の重荷に耐えることができなかったのです。従って葬儀の礼拝は行うことができます。ただし自殺した人は、来世において自殺の罰を受けてから、天国に入る可能性を手にします。そしてそのためには、自殺者が最後の瞬間に信者としての特性を備えていること、そして自殺は許されているものだと見なしていないことが条件となるのです。
一方で、預言者ムハンマドが、刃物を用いて自殺したある人の葬儀の礼拝を行わなかったことも伝えられています。しかしこれは、自殺をした人に罰を与え、他の人々にそのような行為をとらせないようにするためになされたことでした。事実、教友たちはこの人の葬儀の礼拝を行なっています。ただし、イマーム・アブー・ユースフによるなら、誤って自殺にいたってしまった人、あるいは激しい痛みに耐えかねて自殺した人以外、自殺者の葬儀の礼拝は行なわれない、ともされています。
いずれにしても、体はアッラーが人に与えられた最大の信託なのです。この信託を、魂が肉体から(その人本人の干渉のない状態で)離れる瞬間まで、守る必要があるのです。だからイスラームでは、人が精神的・肉体的な苦痛や直面している問題に最後まで耐えることがイスラームでは求められています。自殺することによってこの世での苦しみや諸問題を解決することができると考える人は、自殺のあとすぐに移行することになる墓、そして来世においてより大きな苦痛や災いと食面することになるのです。生きることは、最悪の条件下においてもやはり素晴らしいことです。なぜなら魂が肉体と共にある限り、アッラーの慈悲に失望してはいけないからです。夜の次には必ず朝が来るように、全ての困難さにも救いは秘められているのです。人がアッラーに向かい、アッラーに助けを求めることは、苦しみや問題の解決のための始点となります。アッラーは思いもかけないような形で、思いもつかないところから救いをもたらされます。なぜならアッラーのお力が適わないものは何もないからです。アッラーに助けを求める人は力を得るのです。クルアーン夜章では次のように仰せられています。 「それで施しをなし、主を畏れる者、また至善を実証する者には、われは(至福への道を)容易にしよう。」(夜章92/5~7)
預言者ムハンマドは自殺が大きな罪であることを多くのハディースで告げておられます。 あるハディースでは、戦争で負った傷の苦しみに耐えられずに自殺をしたクズマンという男は地獄の一員だと述べられています。(ブハーリー:聖戦77、戦争章38)。他のハディースでも、自殺をした者は、何を使ってどのように自殺しようと、地獄においてひたすら罰を与えられ永遠に拘留されるとされています。(ブハーリー:治療56)。 ほんのわずかであれ信仰を持つ人は、このような大きな罪と来世での恐ろしい結末を受け入れ、自殺をしようとはしないでしょう。
信者は、この世で直面するできごとの重荷に耐えかねてこのような罪を犯そうとしてはいけません。なぜなら信者にとっては、この世において最悪である出来事すらも、来世でのことを考えるならそれは何でもなく、恐れるべきものではないからです。この世界ははかなく、一過性のものに過ぎないのです。 今現在において、とても耐えることなどできないと人を自殺に追いやらんばかりの出来事でも、少し時間がたてばそれほど悲しむものではないと理解されることもあります。時間の経過と共にそれは忘れられ、別の事柄にとって変わられるのです。忍耐が災難に直面した最初の瞬間に示されるべき、という言葉の真理もここにあるのです。 信仰を持つ人は、このようなはかない、一過性の事柄を、永遠に終わることのない苦しみ、悲しみであると思い込んで自らを苦しめることはありません。これもいつかは終わるだろうと忍耐し、忍耐することによって善行を得ることに努めるのです。このようにしてその災難を恵みへと変えるのです。
アッラーはクルアーンで、人が耐えることのできない重荷を与えられることはない、と語られておられます。事実イスラームの命じていること、禁じていることを詳細に見ていくなら、このことを明白に見出すことができます。アムル・ビン・アースはある戦役で、清浄を行なうことが必要な状態になりました。温度が非常に低かったため、死への恐怖から、彼はその場に水があったにも関わらず、水を用いない清浄によって礼拝をおこないました。この状況を預言者ムハンマドに伝える時、彼は前述のクルアーンの言葉に基づいてこのように振舞ったのだと述べました。預言者ムハンマドはアムルのこの行動を正しいものと判断されたのです。
自殺は過去の教えに従った人々にも禁じられていました。預言者ムハンマドが次のようにおっしゃられたことが伝えられています。「あなた方以前の教えに従う人々の中に、傷を負った人がいた。傷の痛みに耐えることができず、ナイフで手を切った。血が止まらず、彼は死んだ。アッラーは『わたしのしもべは命に関して私よりも自分を優先させた。私は彼に天国を禁じられたものとした』と言われた。」(Buhârî, Enbiyâ, 50).
イスラームにおいて自殺が禁じられていることは、他の命令や禁止事項と同様、アッラーが人間の生命に与えられている価値を示すものです。イスラームの全ての判断は人の生命、個人や社会の保護、文化、健康、子孫、財産、教えや信仰の保護を目的としたものです。例えば、アルコールが禁止されているのは知性と健康を守るためです。不義密通が禁じられているのは次世代を守るためです。つまりイスラームは、人間の生命と社会を脅かす全ての悪に対し厳しい姿勢で挑んでいるのです。
イスラームにおける「葬儀」
葬儀の用意
イスラーム教徒が他界した時、まず次のような事が行なわれます。 ● インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン (本当にわたしたちは、アッラーのもの。 かれの御許にわたしたちは帰ります。) と唱えます。 ● 死者の両目を閉じます。 ● 着衣を交換し、汚物を取り除きます。 ● 礼拝のときの位置に死者の両手を合わせます。 ● 死者の口を閉じます。 ● 下顎を紐状の布で固定します。 ● 両足をそろえます。 ● 両足の親指を縛ります。 ● 使者の顔をキブラの方向に向けます。
遺体の洗浄
遺体を洗浄し、礼拝に参加し、埋葬を行う権利を持つ人とは、まず、遺体が男性の場合、遺体に相続権を持つ男性(例:息子)、次に父・祖父、次いで近い男性親族、の順となります。 一方で、遺体が女性の場合、遺体に対する権利を持つのはまず、遺体に相続権を持つ女性(例:娘)、次に母・祖母、次いで近い女性親族、の順となります。夫婦の場合、女性がなき夫の死体を洗うことは許されるものとの意見が大多数です。ただし夫が亡き妻の遺体を洗うことについては意見の相違があります。 身内・親族がいない場合、成人したイスラーム教徒であり、洗浄の知識(スキル)を持ち、洗浄中に発見した故人の秘密を口外しない者が遺体洗浄を行います。
遺体の処理手続き
イスラーム教徒の遺体の処理を行うことは、ファルド・キファーヤです。これは、一部の人が行えば他の人が行わなくてもよいが、誰かが行わなければすべてのイスラーム教徒が罪になるという義務です。一部のイスラーム教徒によって行われれば参加できなかった者の罪にはなりませんが、全く何も行われなかった場合、死者の所属する地域全員のイスラーム教徒の罪となるのです。
遺体の処理として行わなければならないこととして以下のものがあります。 1. 遺体の洗浄 2. 遺体を包む 3. ジャナーザの礼拝 4. 遺体の埋葬
遺体の洗浄
1. 必要なものを用意します。サンダル、エプロン、手術用手袋、(マスク)、石鹸、綿棒、脱脂綿、ハンドタオル、バスタオル、白布、ぬるま湯、手桶、香油、鋏、(爪切り)、(ピンセット) 等。 2. 手袋をはめ、防水用の前掛けなどをを着用します。 3. 洗浄のニーヤを行い、バスマラ(Bismillaahirrahmaanirrahim)を唱えます。 4. ファーティハ章を詠みます。 5. 肌が見えないように首から下を布で隠しながら、死者の着衣を脱がせます。 6. 完全に着衣を脱がせたら、さらに局部をハンドタオル等で隠します。 7. 上体を起こして下腹部を圧迫し、体内から汚物を取り除きます。 (病院で行なわれている場合も多いです) 8. 礼拝前と同様のウドゥーを施します。 9. 体全体を洗います。(毛髪はシャンプーを使い、体は石鹸を使います。死者が化粧をしていたら、それも落とします。) 10. 清浄なぬるま湯と手桶でグスルを施します。(毛髪を濡らした後、体の右側→左側を3回繰り返します) 11. グスルを施す際に、体内に残っていた汚物が出てきた場合、汚物を取り除く作業を再度行い、グスルはやり直します。汚物が止まらない場合は、熱い土か医療用テープ等で塞ぎます。 12. 再度ウドゥーを施します。 13. 体全体から水分をふき取り、体を隠していた布も乾いたものと取り替えます。 14. 全身及びサジダする場所に香油をふりかけます。
遺体を包む
遺体を包む布(カファン)は遺体を完全に包めるものでなければなりません。 男性の遺体の場合用意する布は3枚、女性の遺体の場合は5枚(ヒジャーブ、上衣、サロン+2)となります。子供の場合は、男子なら1枚か3枚、女児の場合は3枚(上衣+2)、用意します。バラ水などでよい香りをつけることも許されています。
葬儀(ジャナーザ)の礼拝
葬儀に参加し、埋葬を見送ることには多くの意義があります。 ● 葬儀の礼拝を行うことで、その義務を果たすこと ● 死者のためのとりなしを行うこと。ドゥアーすること。 ● 死者の親族への義務を果たすこと。 ● 死者の親族を正しい言葉で慰めること。 ● 葬儀に参加した者に与えられる報奨を受けること。 ● 葬儀や埋葬、墓地を目にすることで、死を思い、多くの教訓を得ること。
アブーフライラの伝承によると、預言者ムハンマドは「葬儀に参列し、死者のために礼拝を捧げただけで去った者には1カラットが、死者が葬られるまで残っていた者には2カラットの報酬がある。」と申された。すると、「2カラットはどれ程ですか」と尋ねる者があった。預言者ムハンマドは「その2つの小さい方でウフドの山に相当する。」と申されました。(サヒーフ・ムスリム) また次のような伝承もあります。イブン・アッバースは次のようにいいました。「私は預言者ムハンマドが次のようにおっしゃるのを聞きました。アッラーに何ものをも配することのない40人の者が亡き人のために葬儀の礼拝を行なえば、アッラーは彼らを亡き人のためのとりなし役とされるだろう。」
葬儀の礼拝はファルド・キファーヤです。つまり、礼拝を行う人がいれば、それに参加できなかった人もイスラーム教徒としての義務を果たさなかったことにはなりません。しかし、礼拝に参加することができるのであれば、そのほうが望ましいとされています。また、人の死をを知りながら誰一人としてジャナーザの礼拝を行わなかった場合、その死を知っていた全員の罪となります。女性も礼拝に参加できます。 葬儀の礼拝にあたっては、葬儀の礼拝を行うというニーヤを行い、キブラに向かい、清浄な状態で行います。また、礼拝に参加できるのは成人で健全なイスラーム教徒となります。
ジャナーザの礼拝は遺体に向かって立って行われます。通常の礼拝と違い、アザーン・イカーマは唱えられず、ルクゥやサジダの動作はありません。立ったままとなります。タクビール(Allahu Akbaru)を4回唱え、ファーティハ章を詠み、イブラーヒームの祈りを捧げ、死者の為に祈り、サラームをして終わります。.ここでの祈りとしてはいくつかのものが伝えられています。
「アッラーよ、私たちの内の生きている者を、亡くなった者を、この場に居合わせている者を、不在の者を、老若男女をお赦し下さい。アッラーよ、あなたが私たちの内で生かされる者はイスラームにおいてお生かし下さい。あなたが私たちの内で死をお与えになる者は、信仰をもった状態でお死なせ下さい。アッラーよ、その報奨を私たちに禁じないで下さい。また私たちをその後で迷わせないで下さい。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャ) 「アッラーよ、彼を赦し、彼にご慈悲を与え、彼を癒し、お守り下さい。そして彼によい住まいを与え、その入り口を広げ、水と雪と雹で彼を清めて下さい。そしてあなたが白い服を汚れから清浄にされたように、彼をその過ちから清めて下さい。そして彼に(生前の)彼の住処よりも素晴らしい住処を、彼の(生前の)家族よりも素晴らしい家族を、彼の(生前の)配偶者より素晴らしい配偶者を引き換えにお与え下さい。そして彼を楽園に入れ、墓の災難(あるいは業火の懲罰)から彼をお護り下さい。」(ムスリム) 「アッラーよ、本当に○○はあなたの庇護の許に、あなたを頼みの綱としています。ですから墓の災難と業火の懲罰から彼を御守り下さい。あなたこそ約束をご履行される真理のお方です。彼を赦し、彼に慈悲を垂れて下さい。本当にあなたはよく赦される慈悲深いお方です。」(アブー・ダーウードとイブン・マージャの伝承)
死者が男性の場合、イマームや礼拝をする人の立ち位置は遺体の頭の辺りとなります。死者が女性の場合、立ち位置は遺体の中央(腰の辺り)となります。
礼拝が終わると棺が運ばれます。葬儀の礼拝の行なわれた場から棺が運ばれる時、棺は参列者の頭上にかかげられ、人々もそれを担ごうと集まります。遺体の運送は男性のみが行ないます。その前後に徒歩の参列者が並びます。墓地が遠い場合は乗り物で遺体を運んでも構いません。
埋葬
イスラーム教徒の遺体は、イスラーム教徒用の墓地に埋葬します。火葬にすることはありません。一般向けの墓に埋葬されることもありません。
墓穴は十分に深く、広く掘る必要があります。遺体を墓穴に安置する時には「アッラーの御名において。そしてアッラーの使徒のスンナにおいて」と唱えます。 遺体は右側を下にして安置し、顔はキブラの方に向けます。その上で砂を入れて穴を埋め、地表から数センチほどの高さに半円状に盛り上げます。
墓地の訪問
死、来世について思いをはせるためにも、墓地の訪問は意義のあるものです。墓地は、日々意識に上らないような多くのことを思い起こさせます。ただし墓地で死者に願いことをしたりすることはアッラーに何ものかを配する行為であり、シルクとなるため絶対に行ってはいけません。
最後に
死や来世の真実を深い教訓と共にわかりやすく説いている、イスラーム圏の短編小説を紹介したいと思います。原文はトルコ語です。
危機一髪
By Y. YILMAZ The Fountain 1994
子供の頃から、私は狭い、閉じられた空間が怖くて、そのような場所を徹底的に避けてきていた。後で私は、これは閉所恐怖症として知られる状態であると知った。しかし私はそれを克服することができずに、これまできたのだ。 今私は、いやいやながら閉じられた狭い空間に入らなければならなくなった。私は白布で包まれて、長い棺の中にいる。私はまわりの人たちの声を聞くことができるし、目は閉じられているけれど彼らを見ることもできる。 「彼はあまりにも早く死んだよ。」と彼らは話し、そしてこうも付け加えた。「やることもいっぱいあったのに。」
私が多くの仕事をやりかけのままで遺したことも、一つの事実だった。私は息子のために立派な会社を設立することも、車とテレビの支払いを終えることもしなかった。もう冬が来るというのに、雨漏りする屋根を修理していなかったし、燃料もまだ買っていなかった。大きな会社を設立して友人達を雇用すると言う夢は、今はもう散ってしまっていた。
突然、私は大きな音に神経を逆なでされた。まるで、マイクで私の全ての脳細胞に反響させているような音だった。 「全て終わりました!」
私は、終わっていなければどんなに良かったかと思った。どうして事故が起こったのか、私にはわからなかった。私は腕のいいドライバーのはずだった。
事故のことを思い出そうとしている時、私は友人達が私の上に板を置いて棺を閉じようとしていることに気がついた。どれほど叫びたくても、私には動くことも、声を出すこともできない。私は完全な暗闇の中で、棺の隙間から漏れてくる光に目を向けた。 恐怖の中で私はつぶやいた。「神よ、私は今何をしようとしているのですか。」
恐ろしさに捕えられて、何も考えることができなくなった。まもなく人々は棺を持ち上げ、私は彼らの肩の上に載せられた。外から聞こえる音で、雨が降っていると分かった。雨のしずくの音が、棺のきしむ音に混ざっていた。私達は葬儀の礼拝の為にモスクに向かっているに違いなかった。 私は、モスクが近くにあったのに、これまでそこを訪問しなかったことに気がついた。本当は50歳になったら礼拝を始める予定だったのだ。そしてみんなが文句を言っていた、悪い習慣もやめるつもりだった。事故さえ起こっていなければ、私は良い人になるはずだったのだ。
「全て終わりましたよ!」 この声が繰り返し聞こえた。
しばらくして、私の葬儀の礼拝は終了した。モスクのイマームが、私がどんな性格だったか人々に尋ねていた。そこにいた、8人か10人くらいの人は、何も意見を述べなかった。私は自分が彼らに若干の危害を加え、悪事を働いたことを認める。しかしもし事故が起こらなかったら、私は償いをして、彼らに対して与えたことを補償するはずだったのだ。
モスクでの礼拝が終わった後、私は再び肩の上に載せられた。棺の傾き具合から、私は墓場へ上る道を進んでいることを理解した。棺の隙間から雨が流れ込んできて、棺の中を濡らしていた。私は外から聞こえてくる会話を聞き取ろうとしていた。友人達の一部は市場の停滞について話し、また一部は前の晩にテレビで見た洋画の話をしていた。そして棺を運ぶ人の声も聞こえた。
「こいつはなんて悪い日を選んで死んだんだ。俺たちは完全にびしょぬれだ。」
私は自分が聞いたものを信じることができなかった。きっと自分は誤解したんだと思い込んだ。彼らは、私が自分の富と健康を犠牲にした相手ではなかったか?
まもなく私の旅行は終わった。私の棺は地に置かれた。ふたが再び取り外された。私の無力で命のない肉体を担いできた腕は、それを水が溜まった穴の中に入れた。地面の中で、私はあたりを見渡した。
「ああ、神よ。これは墓ではないか!」 私は、その時まで、自分が墓に葬られるのだとどうして気がつかなかったのかわからなかった。誰も私の声なき叫びを聞く者もなかった。親友達は私の体を厚い板で覆おうと、互いに競い合っているようですらあった。
私は再び、完全な暗闇の中にあった。私は全身の細胞で祈り始めた。 「ああ、慈悲深い神よ。あなたの本当のしもべとなるチャンスはもうないのですか。」
同じ声が繰り返された。 「全て終わりました。何もかも終わりましたよ。」
私は、板の上で雷のように響く地面の音に揺すぶられた。最後の努力で、私は目を開いた。
私は居心地の良いベッドに寝ていた。全てが悪い夢だったのだ。医者である一人の隣人が、私のベッドの脇に立っていた。
「全て終わりましたよ。あなたはもう大丈夫。」
私はベッドからゆっくり体を起した。私は20キロくらい体重が減ったように感じるほど、汗びっしょりだった。外ではひどく雨が降っていた。そして家全体が雷で揺さぶられているようだった。
自分の身に起こったことへの当惑から落ち着こうとしつつ、私はつぶやいた。 「ああ、神よ。あなたに感謝します。あなたの真のしもべとなるチャンスをあなたにもう一度いただいていなかったら、私はどうなっていたことだろう。」
|